松本生活館

池田 三四郎(いけださんしろう)1909?〜
1909(明治42)年長野県松本市に生まれる。旧制東京高等工芸学校(現千葉大学)写真科卒業。東京にて建築写真業を自営。1948(昭和23)年日本民芸運動に参画して柳宗悦に師事し、「用の美」の思想を、故郷の地で主宰する松本民芸家具で実践。それは北アルプス山麓に自生するミズメ桜や欅を材とし、松本の家具職人の中に脈々と受け継がれていた伝承技術を生かすこと。百年使ってもビクともしない堅牢さは、戦後ひろがった「使い捨て」の風潮に抗するものであり、欧米のアンティーク家具の逸品に学んだ和洋のデザインは、流行を超えた美として高く評価され広く愛用されている。

      (株〉松本民芸家具・(株〉中央民芸代表取締役会長、日本民芸協会常任理事、長野県民芸協会会長、松本民芸生活館館長、通産省伝統的工芸品産業審議会委員、松本市文化財審議委員長、松本デザイン交流会議会長などを歴任。
      著書に「松本民芸家具」「信州の石仏」「民芸の家具」「李朝木工」「木の民芸」「石の民芸」「金の民芸」「三四郎の椅子」など。


柳 宗悦(やなぎむねよし〉1889.3.21〜1961.5.3
思想家。民芸運動創始者。東京都生まれ。1913(大正2)年東大文学部卒。多くの日本人が根強い欧米コンプレックスとアジア蔑視感情に支配されていた時期に、さまざまな文化的価値を無意味にランクづけることなく捉える独自の審美眼を持ち、次々と新しい美を発見し、しかもその美の由来を宗教的深さをもって理論的に解明した。その契機となったのは、W.ホイットマンの思想であり、バーナード・リーチとの交友であったといわれている。無名の工人の生み出す日常的で健康な美に目を向け、日本の文化的価値を見直す中で、1926年浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を起こし、理論の確立と運動の実践に努める。1936(昭和11)年日本民芸館を設立し館長に就任。1931年雑誌「工芸」を創刊、近代化の過程で消滅しつつあった地方の手仕事を保護・育成。生涯にわたる思想と行動は、異文化共存の重要性を示唆するものである。1957年文化功労者。著作は多数あり「柳宗悦全集」22巻に収められている。


浜田 庄司(はまだしょうじ)1894.12.9〜1978.1.5
陶芸家。神奈川県川崎市生まれ。1916(大正5)年東京高等工業学校(現・東工大〉卒。在学中に2年先輩の河井寛次郎を知る。卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に入所し、一緒に釉薬の研究を行う。1918年東京でバーナード・リーチと出会い、1920年リーチの誘いで共に渡英し、向こうで築窯・作陶した。1924年英国から帰国し、京都の河井邸に滞在して河井と柳宗悦を結びつけ、栃木県益子に移った。1925年、柳、河井と「民芸(民衆的工芸)」の語を創案し、民芸運動の推進者となった。以来奇をてらった作風を嫌い、焼き物本来の健やかで堅実な作品を生涯にわたって制作した。釉薬も益子既存のものを使い、彼だけの特別の秘釉はなかったが、これを駆使し、独自の表現や手法を創案したのである。1955(昭和30)年民芸陶器により人間国宝に認定され、1962年柳のあとを継ぎ日本民芸館館長に就任。1968年には民衆的工芸品の美しさを国際的にひろめた業績により文化勲章を受章。海外でも最も著名な日本の陶芸家で、米国ミシガン大学、英国ロンドン王立大学より名誉学位を受けている。


河井 寛次郎(かわいかんじろう)1890.8.24〜1966.11.18
陶芸家。島根県安来の生まれ。山陰の豊かな自然と文化の中で少年期をおくった。東京高等工業学校(現・東工大)で窯業科学を学び、1914(大正3)年卒。京都市立陶磁器試験場の技手となる。同試験場に2年後に入所した浜田庄司とともに釉薬の研究を重ね、作陶の技術的支柱とした。その後京都五条坂に「鐘渓窯」を構えて独立。1921年の作陶展で天才陶芸家と称された。しかし1924年に英国から帰国した浜田庄司を介してはじまった、柳宗悦との交流により雑器の美に目覚める。翌年柳、浜田とともに「民芸(民衆的工芸)」の語を創案し、作風も技巧性を払拭した素朴で親しみのある「用の美」へと展開した。1937(昭和12)年パリ万博でグランプリを受賞。1957年ミラノトリエンナーレ展でグランプリを受賞。作風はさらに器の形にこだわらない、自己の創意の赴くままの境地へと進んだ。「化粧陶器」「いのちの窓」の著書がある。「鐘渓窯」は現在河井寛次郎記念館となっている。



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